かばんの歴史

bag002.jpg

豊岡かばんの地場産業としての歩みは古く、柳行李からというのが定説となっている。

柳行李は明治の中頃まで骨柳(こつごおり)と呼ばれており、古くからその存在はあったようで、西暦927年編纂の「延喜式」によれば奈良正倉院の調度品の箱の部類に柳の細枝を麻や絹糸で長方形または円形に編まれた「柳筥」(やないばこ)があり、これが完全な骨柳(こつごおり)としてみられる。「大宝賦役令」(703年)には「筐柳(はこくさ)一把あり」とあり 「続日本書記」(722年)にも「筐柳」「柳筥」の記述が見られ、当時宮中への献上物として用いられていたと思われる。

日本における杞柳製品発祥の歴史は、第11代垂仁天皇時代の西暦前27年頃の柳の伝来に始まり、但馬地方に於いては但馬開発の祖といわれている天日槍命(あめのひぼこのみこと)によって杞柳製造技術が伝えられたとの伝承があり、正倉院の「柳筥」は但馬地方から上納されたものといわれている。

但馬地方を北流し、豊岡市の中心部を蛇行して流れる円山川には、荒原(あわら)と呼ばれる湿地帯が随所に形成され、杞柳の原料となる「コリヤナギ」が多く自生した。また、行李を編む時に使用する麻糸は、但馬麻苧(あさお)として、既に全国的な名産であり、縁竹にも恵まれていた。のみならず、当地方では冬期は積雪があり、耕地は狭小で新田開発の余地が少ないなど、自然制約的に農民の余剰労働力があり、副業としての杞柳製品づくりへの条件が整っていたのである。

1473年の「応仁記」には「九日市場」が開かれ、商品として売買されている記述があり、この頃には家内工業的に産業として発展していたものと推測される。現在のような柳行李は成田広吉が江戸で武家奉公している時に門前の柳の細枝で飯行李を作った経験を生かし、帰郷後柳行李を作ったのが最初と言われている。1668年京極伊勢守高盛が丹後国から豊岡に移封され、柳の栽培並びに製造販売に力を注ぎ、土地の産業として奨励したのが杞柳産業として大きく発展するもととなった。豊岡かばんとしては、明治14年に八木長右衛門が第2回内国勧業博覧会に3本革バンド締めの「行李鞄」を創作出品したと伝えられている。


bag001.jpg

外観はトランクと同じだが、柳行李で有名な豊岡で作られたことからトランクと言われず、柳行李と呼ばれたが、これが後の豊岡鞄の源流であると言える。大正6年には、この三本革締めの柳行李にウルシを塗り、錠前を付けた新型鞄が出現した。これが豊岡がかばんとして売り出した最初のものであると言われている。

昭和3年頃になるとファイバー鞄が商品化され、昭和11年のベルリンオリンピックの日本選手団の鞄として豊岡のファイバー鞄が採用されるなど、豊岡鞄の主流となっていった。昭和24年にはファイバー鞄が杞柳商品を抑えて、生産高第1位になっている。この後、昭和24年頃まで、ファイバー鞄の時代は続いた。

昭和28年頃から塩化ビニールレザーがかばんの素材として出始めていた。この頃豊岡には縫製技術が殆ど全くといっていい位なかった。ビニールレザーを貼付けて加工するのが主体であったが、昭和27年、東京でマニラから持ち帰ったかばんを参考にして作られた「スマートケース」が考案された。これは映画「君の名は」で岸恵子が持ったことによって大流行した。このスマートケースは素材を袋状に縫製したあと、枠に被せるものであった。豊岡でもスマートケース協会が設立され、本格的に生産することになる。これによって昭和29年頃からミシン加工による縫製技術が急速に導入されていった。


昭和28年、スーツケースの胴枠を改造し外形崩れ防止にピアノ線を使用したかばんが生まれた。オープンケースと呼ばれるものである。軽くて強靭なため他商品を圧倒した。これを受けて昭和31年にはオープン協会豊岡支部が結成され、オープンケースの生産に全力を注いでいく。その販売量は発祥の地、東京を凌いでおり、アメリカを中心に輸出も急激に伸びてゆくことになり、昭和39年頃には蓋に2本、底に1本ファスナーがあり、3通りの厚みに調整できる「エレガントケース」が作られ、大量生産、大量販売された。


オープンケース証票交付数
(昭和32年)

東京:223,100枚/大阪:60,000枚/

名古屋:40,000枚/豊岡:240,000枚

オープン協会会員数
(昭和37年)
東京:195名/大阪:65名/名古屋:18名/豊岡:127名

このオープンケースの東京を凌ぐ実績により、日本のかばん4大産地の一翼を担い、エレガントケースの大量生産などにより、さらにその地位を確固たるものにしたと言える。

昭和45年後半頃からは内外の需要停滞が顕著になり、ニクソンショックと言われるアメリカの経済政策の転換や急激な円高、オイルショックなど様々な環境の変化により輸出は激減していく。これによって販売先を国内に切り替えていかざるを得なくなる。このため、原材料も塩化ビニールからジーンズ・キャンパスなど布綿類へと多様化していくことになる。大量生産、大量販売を得意としてきた豊岡の鞄業界には大きな転換期であった。

現在では、中国を中心とした安価な輸入品が日本市場に出回っており、4大産地といえども、輸入品を取り扱わざるを得ない状況となっている。これにより、各社の営業企画力、商品管理能力などがより求められている。一方で(社)日本鞄協会では、こうした輸入品と国産品の判別がしやすいように、国産品には「信頼のマーク」を付けて国産品の技術をアピールするようにしている。

kyoukai2.gif

信頼のマーク


今後とも、大量生産・大量販売は輸入品に依存する事は疑いの余地がなく、国産品は材料(生地・金具など)の先進性や優秀性を武器として機能性やファッション性、或いは時代の要求に合ったエコロジーなど、より多様化し、高級化して消費者の満足感に訴える方向になるだろうと思われる。